
うちにはもう数十年ものあいだ、テレビがない。でも、時間が空いたらどこでも映像を見ている。
若い頃はレンタルビデオを借りておいて、朝から途中まで映画を観てから学校へいったん行って、帰ってきて観終えて、夜にもう一本別の映画を観る、みたいな感じだった。配信の時代になって、パソコンやケータイでもっと細切れに観ている。これだけ映画や映像を観ているのに、自分も物語性のある映像作品をつくりたい!とはならないから不思議だ。どちらかというと物語性が欠損した人格だとは思う。
最近、YouTubeの有料会員になってみたが、CMがないだけでこんなにも快適だとは想像していなかった。ホントかどうかは知らないが、フジテレビのCMが全部ACジャパンに変わったからといって消費者の購買行動に何の影響もなかったという報道があったことなどを合わせると、CMという存在についてあらためて考えてしまう。まあそれはそれとして。
工場の出口にリュミエール兄弟がカメラを据えたものから中高生がじゃれあってキラキラ踊るTikTokまで、いろいろな映像を見てきたが、人生の中でずっと見続けてきた映像コンテンツといえば、アニメ『美味しんぼ』だ。喩えが古くて恥ずかしいが、イチローにとってのカレーライスのように、自分を定点観測的に測るものさしにすらなっている。
うちがお寺の家系だからかどうか知らないけれど、家庭の食卓ではニンニクはほとんど使われていなかった。だけどスパゲティだけは先に入ってきていて、ケチャップなんかで和えられて「私、そういう食べ物なんです」みたいな顔で堂々とテーブルに並んでいた。アーリオオーリオペペロンチーノなるものが食卓に登場するのは、私が生を授かってからだいぶ後のこと。ニンニクは我が家にとってかなり鳴り物入りだった。どうもニンニクがパスタ料理のカギらしいということがだんだん明るみになり、家庭の中でショウガとは違うステータスを得ることになる。『美味しんぼ』はそういう時代のアニメだ。主人公の山岡さんとその父にしてライバル関係にある海原雄山は、高度経済成長期に失われそうになっている「古き良き日本」みたいな味を追い求めているみたいなんだけど、実はむしろ、あの時代にとって未来的すぎる異物だったとも言えるかもしれない。
東上野のあたりを通るときに、ふと「キムチの精神(こころ)」の回を思い出して第一物産に寄って帰る。高速道路を往復時速200キロで飛ばして牡蠣をゲットして警察沙汰になる「鮮度とスピード」のバイクショップTHUNDER BOLTSがあったのもたぶんそこからほど近くで、スタジオに行く道の途中にある。そんなふうに『美味しんぼ』は今も私の生活に密着している。
子供ながらに社会問題を刷り込まれたのも『美味しんぼ』からだ。「香港味勝負」の回でニョクマムと一緒にボートピープルの存在を覚え、富井副部長の出生から中国残留孤児が他人事ではないと知った。捕鯨反対の外国人をだまして鯨肉を食べさせた「激闘鯨合戦」のように、今となっては完全にアウトな回もあるけれど、なんというか、そういうめちゃくちゃさも含めて面白い。コンプライアンス喧しい今の世に配信サービスで見ると、また違った感慨がこみあげてくるってものだ。
昨年、作品制作の必要にかられてプロジェクターを買ったのだが、テストと称して最初に見たのはもちろん『美味しんぼ』だった(笑)。でかい画面とオーディオで視聴するデジタルリマスターの『美味しんぼ』は、またひと味違った。オープニングとエンディングは、(アニメ『シティハンター』同様)まだ日本が元気だった頃の異様にアーバンな雰囲気。縦に長い絵を4 : 3比率のカメラでスクロールした高層ビル街の表現がとにかく最高。これが1枚の縦長の絵であることはパソコンやiPhoneでは気づきづらいが、プロジェクターだとむしろ強調されて映る。東京はこういうキラキラした街なんだと子供ながらに見ていたが、それはバブルとともに永遠に失われた。ところでこのキラキラ、実はデジタル化された今のアニメでは表現できないもので、フィルムに穴を開けて裏から電球で輝かせていたらしい。私もアナログ電球の明滅を使って表現をしているので、自分の根っこにまだまだ知らない『美味しんぼ』がどんだけ巣くっているんだと驚いた。