美しい盲目の三味線師匠に仕える男、佐助のひたむきな献身が彼らの関係を危険な方向へと導く。身を削っても好きな人の傍から離れないという究極の「愛」を描いた近代小説の白眉、昭和八年刊の『春琴抄』。
わたくしが初めて東京に留学した四五年前、ある日たまたま入った神保町の古書店では希覯本を二階に置いてあるからどうぞ、と言われ階段を上ってみた。書棚にずらりと並ぶ自筆原稿と初版本の山から手に取って、ページをめくりながら立ち読みをしたのはこの一冊。奥付を見ると谷崎潤一郎作、とある。黒い漆を塗った表紙はテカテカというよりも半艶(はんつや)という技法を使って柔らかい光を放っている。黒い地の上に谷崎の愛妻松子さんが自ら金泥で「春琴抄」と流麗な筆致で文字を走らせている。これほど美しい実物の文学書を見たことはない、と思い、即決で二ヶ月分の下宿代を払って鞄に入れ持ち帰ったのである。その時も今も、もちろん後悔はない。
表紙を開くと巻頭から文章は旧漢字・歴史的仮名遣いで書かれ、おまけに句読点がほとんど見当たらないからまるで浮世絵版画の雨降りみたく文字が天からザァザァと降ってくる。二十一歳のわたくしには歯が立つはずがない。けれど、読めるようになりたい、という気持ちが湧き日本語を学んでいる内に、読めるようになった。留学中、ある先輩から松子さんに紹介され、半世紀近く前に彼女が筆を走らせた本の扉にサインしてもらった。日本文学との縁を形にした一冊で、わたくしの宝物になった。『春琴抄』は、映画にもなっているけれど、切れ目なく川のように流れる文章を初版本で読み返していると、今でも身体が物語の中に溶け込んでいくような深い感触が生まれる。本物が持ち続ける物質の力だと思う。
『春琴抄』特装初版本
谷崎潤一郎